猫との田舎暮らしをめざして

今年は都会を脱出!

放射線治療の再開と初めての抗がん剤

放射線治療の再開

 

二度目の手術を終えて退院したうににゆっくり休んでもらいたかったけれど、獣医さんからは、癌に先手を打つべく、できるだけ早く治療を再開するよう勧められていた。そこで、手術から2週間後に診察を受け、放射線治療を再開することになった。

一方私のほうは、慣れない本店勤務でとても疲れていたものの、当面は一日おきの出勤なので、どうにかうにの病院通いと両立できそうだった。それでも、週によっては仕事と通院の日が重なってしまう。そんなときは朝早く病院に着いて、受付が開くと同時にうにを預けてパリの本店に出勤する。そして夕方は夫がテレワークを終えてから、迎えに行ってくれた。一日中、嫌いな病院に閉じ込められるうにのことを思うとかわいそうで仕方がない。だから休みが取れそうな日は休暇を取り、なるべくうにに付き添うことにした。色々大変だけれど、これで癌を抑えこめるなら、やりぬくしかない。

幸いなことに病院のスタッフは皆さん親切で、うにがおしっこで下半身を汚したときはきれいにしてくださったり、色々と気にかけてくださるのでありがたかった。

6月の終わりからは、いよいよ私の本来の勤務先も営業を再開した。街も活気を取り戻しつつあった。それでもコロナ前に比べると、電車に乗るのもおっかなびっくり、とにかく他人に近づきたくない。職場で制服に着替えるのはもちろん、何か触ればすぐに手をアルコールで消毒。家に帰れば玄関で服を着替えて、脱いだ服を外出用としてクローゼットにしまい、手、携帯電話、床、ドアノブを消毒して…。うにが病院から戻るときも、キャリーケースを毎回消毒した。

 

病院から足を延ばしてみた

 

この間、大型のショッピングモールやレストランも営業するようになった。相変わらず病院の建物内にとどまることはできないので、待ち時間を持て余した時は、バスで大きな公園やショッピングモールまで足を延ばしてみた。

病院通いがなければ、これまで来る機会もなかった街だけれど、自分の住むところとは住民の雰囲気も全く違う。パリに向かう直通の地下鉄も通っていて不便ではないが、ここに住んでみたいとは思えない。街並みだって一見整っているし、汚い感じもないのに、人々の様子は何だかぎすぎすしているように感じたからだ。ある時は、バスの中で検札係に無銭乗車をとがめられ、逆ギレしている人を見かけた。もっとも、それに対する検札係の態度も不愉快で、悪口の応酬を聞いていてため息が出た。それに無銭乗車の客は座ったまま動こうともせず、罰金を払おうともしない。その間バスは停まったままで、他の乗客には何の説明もなく、私たちは馬鹿みたいに待たされ続けていた。結局同僚の検札係に促され、罰金請求の続きは車外ですることになったらしい。彼らが降りてようやくバスは動きだしたが、とても嫌な感じがした。検札係は、自分の仕事さえすれば他の乗客のことなんてどうでもいいみたいに思えたし、一方で文句を言った客の話し方もとても失礼だった。

ぎすぎす、というのはどこか攻撃的と言い換えられるのかもしれない。このあたりはいつもこんな雰囲気なの? それともコロナ不安が影響しているの? とにかく片道一時間半ほどはかかるバスでの通院のたび、何かが起こる。やっと病院につきそうな所まできたのに、いきなりホームレスが乗り込んできてバスのドア周辺に倒れこみ、バスが発車できなくなってしまったこともあった。病気ではないらしく、周囲の人たちが起き上がって移動するように言うのだが、らちがあかない。一向に動き出さないバスに苛立って、乗客たちが降りていく。私も病院の予約の時間が気になり、次のバスで間に合うだろうかとハラハラした。

そんなこんなで、通院から無事に帰ると、毎回どっと疲れを感じた。だから一週間が終わるたびにすごい達成感と安堵感があった。週三回が四週間。12回の放射線治療は長かった。私以上にうにが大変な思いをしているのだけど…。

 

初めての抗がん剤

 

それにしても、最初の放射線治療を始めてせっかく一週間経ったのに、癌の再発と手術を挟んでまた振り出しに戻ってしまったのはつらかった。相変わらず治療の前は食事をもらえず、麻酔をかけられて、バスに長時間乗せられて…。うには、自分がどうしてこんな目に遭わなければならないのかと恨めしく思ったかもしれない。やはりストレスになっているのか、病院に行かない日も、なんとなく元気がないようなのが気になった。最初の手術の後には食欲も旺盛だったのに、食べる量も全体的に減っていた。

かといって、実際には体重も減っていないし、血液検査の数値も悪くないという。

そこで放射線治療の二週目には、一回目の抗がん剤治療のため、一泊で入院することになった。抗がん剤治療と言えば、人間の場合、副作用がよく話題になるので、私には怖いというイメージが強くあった。獣医さんによれば、一回の投与では、人間ほどの強い副作用は出にくいという。効果が副作用に勝るなら、とやってみたのだが、正直なところ後悔している。抗がん剤は正常な細胞も攻撃する。そんなものが身体にいいはずがないと思うのだが、癌を退治したい一心で治療を受けさせ、うにをまた辛い目に遭わせてしまったからだ。実際、治療後は食欲をなくし、下痢もしてしまったうに。かわいそうなことをしてしまった。

抗がん剤は生き物の身体にとっては毒だ。抗がん剤治療を受ける動物は必ず病院に一泊しなければならないのも、排せつ物に抗がん剤、つまり毒物が含まれているためだ。退院するときに、数日間は排せつ物や体液に注意するようにという説明書をもらうのも、抗がん剤という毒物へ触れることへの注意喚起だ。それでも、これで効果が得られるならやってみたいと思うだろう。でも残酷なことに、うにの癌には効果がなかった。良かれと思ってやったことが、結果としてうにの食欲や元気をさらに失わせてしまったのが、今となっては悔やまれる。

 

病気の治療と生活の質

 

うにの闘病から学んだのは、動物を取り巻くそれぞれの立場にはそれぞれの目的があり、必ずしも優先順位が一致しないということだ。

獣医さんは、あくまで病気を治すという目的から、治療を提案する。とくに癌治療を専門としている獣医師なら、癌を退治することをまず優先するだろうし、効果がありそうな方法があれば、試そうとするだろう。

では、飼い主の立場はどうか。

病気を治したいというのは、獣医さんと同じだ。私はうにと暮らして、たった2年で癌に直面してほとんどパニックになり、とにかくできることはしてあげたいと考えていた。うにともっと一緒にいたいと思ったし、うにが病気の症状で苦しんだりする姿を見たくないと思った。そして、その先にある死に向き合うのがとにかく怖かった。それに、まだ治療法が残されているのに試みない飼い主は、自分の動物を見殺しにするようで、どこか冷たいし薄情だ、という思いもあった。なにより、私はうにの癌は完治すると信じていて、治療をしたらしただけの効果があると思っていた。

でも、少しでも長く生きていて欲しい、という願いは、どんな状態でもいいからということではない。食べられなくてやせ細ったり、痛かったり、苦しかったり。ごはんがおいしく感じられなかったり、気持ちよく眠れなかったり。生活の質が低下してしまうのは辛い。自分に置き換えてみると、快適に過ごせず、生きていることが苦しいだけなら、死んだほうがましだと思ってしまうだろう。

過去や未来に縛られるのは人間だけで、動物は今この時を生きている存在だという。

それなら、少しでも長く生きるために、今辛い治療を我慢しようという発想は動物にはないはずだ。

私はうにの代理人になる、と決めたのだが、治療を続けていた時の私は、必ずしもうにの気持ちの代弁者ではなかったと思う。それでも、うにが病気を克服して、元気になってこれからも一緒にいられると信じていたから、悪いことをしているという意識はなかったのだった。

 

病院に行かない日はのんびり