猫との田舎暮らしをめざして

今年は都会を脱出!

あと二日の命

仕事を休んで、うにのそばで過ごす

 

うにの旅立ちを見送る覚悟をした翌日、仕事に向かう電車の中で、私はどうやって明日の仕事を休むかばかりを考えていた。

ペットの安楽死に立ち会うというのは、仕事を休む正当な理由になるのだろうか。なるような気もするし、そんなことで休むなんてと非難されそうな気もする。とにかく、いざとなったら仮病を使ってでもなんでも休んで、うにの最期に立ち会うのだ。

そうはいっても、嘘をつくのはやはり気分が悪いしなぁ、と悶々としながら職場に着いた。そして朝のブリーフィングが終わって、今週の予定を確認するために同僚が勤務表を持ってきた。明日の勤務予定が目に入った瞬間、涙がどっと吹き出し、気づいたら号泣していた。驚く同僚たちを前にして、私は本当のことを白状せざるを得なかった。

意外なことに、明日の休暇はあっさりと認められた。そのうえ、今日は早退してもいいという。ペットは家族と言うけれど、私が今まで意識したことがなかっただけで、身近な動物との別れを経験した人は多いのだろう。この歳になっても、まだ知らないことがたくさんある。こんなに悲しいなら、動物なんて飼わないほうがよかったのかもしれない。でも…。

思えば初めて娘が猫を連れてうちに来た時から、キャリーケースの中で怯えた目をしたうにを見た時から、もう猫の魔力にやられてしまっていたのだ。

昔、住んでいたのアパートのベランダに来るようになった野良猫の世話を少しの間しただけで、猫のことなんて何も知らなかった私。最初はうにのやることなすこと、見ているのが本当に面白かった。爪を研ぎ、暇さえあれば身体を舐め、決まったところで用を足してちゃんと砂をかける。猫のきれい好きは見事なものだった。それに人間の世話にはなっているけど媚びないし、気に入らないことはちゃんと言う。昼寝を邪魔されたりして嫌な時、いかにも不機嫌そうに「うにゃっ」と短く発する声があまりにかわいくて、それを縮めて「うに」と名付けたぐらいだ。かといって、冷たいわけでは決してない。私たちが集まって食事をしたり、居間でくつろいでテレビを見たりしていると、自分も仲間に入りたくて、さりげなくそばに来る。そのうちにパッと膝に乗り、ゴロゴロのどを鳴らし始めたかと思えば、すっかり脱力して寝入ってしまう。やがて骨まで溶けてしまったかのようにぐだぐだになり、猫の身体ってこんなに長かったっけ、とびっくりするほど遠慮のない姿勢で身体をくねらせ、ソファを占領する。

そんなうにをもっと見ていたかった。うちに来て3年も経たずにいなくなってしまうなんて、ひどいよ…。

色々な思いが頭の中に浮かぶので仕事をしていても集中できず、結局午後には早退させてもらった。

 

うにとの最後の夜

 

急いで家に帰ると、うには相変わらず布団の上でじっとしていた。

液体の高カロリー食を与えようとしたが、頑なに口を閉じ、受け付けようとしない。

「昨日、もういいよ、って言ったでしょ。」とでも言いたそうな目つきで私をじっと見るだけだ。

「ごめんね。もう無理しなくていいよね。」

そうだ。もうこれ以上、うにの嫌なことはしないからね。不思議なことに、昨日の決断をしてから、急にうにが弱ってきたような気がする。すっかり小さくなったうにの背中を撫でる。骨ばかりが目立つようになった身体、ついこの間までまだしっかり肉がついていたはずなのに…。

やがて、ずっと丸くなっていたうにがふいに身体を起こしたかと思うと、黄色いシミがうにの身体からペットシートの上に広がっていった。うにが自分のトイレ以外で用を足すことはこれまで全くと言っていいほどなかったのに。もう、トイレに行く元気もないのだろうか。シートを交換し、うにの濡れた下半身をきれいにしてやると、また丸くなってじっとしている。

私はうにの隣にゴロリと横になり、ユーチューブで昔の映画を見始めた。これ、前にも見たよなあ、まだ東京の実家にいた頃だ、出てる俳優さんたちもまだ若いなあ。そういえばこの人、もう亡くなったんだよな。…なんて独り言を言いながら。

そうこうしているうちにも、少しずつ、確実に時間が過ぎていく。窓の外はすっかり暗くなった。明日の今頃、もううにはいないなんて、やっぱり信じられない。でも、まだ今夜は一緒に寝られる。明日になったって、夕方までは一緒にいられる。まだ大丈夫…。

隣にいるうには、目を細めてじっとしている。昨日私に目で語りかけてきた力強さはもう感じられない。それでも頭を撫でるとゴロゴロと喉を鳴らす。うには生涯最後の一日を過ごしながら、何を思っているんだろう。もう食べることも飲むこともしない。毛づくろいもせず、置物のようにじっとしている。膿と血で汚れたエリザベスカラーを交換してやる。用心深いうには、慣れないことをされると警戒心をあらわにしたものだったが、最近では何をされても怒らない。患部は顎の下なので正面からは見えないが、顔の右側は腫れているのがわかる。癌に圧迫されているのか、ここ一週間ほどで右目が開きにくくなってきていた。

うにと最後の夜、またペットシーツと布団の間にもぐりこんで寝る。うには私の枕元で丸くなったまま動かない。もう体の上に乗ってくることもなかった。朝になって枕もとを見ると、まだ同じ場所に同じ姿勢でいた。

 

ついにその日が来てしまった

 

そして、いよいようにを見送る日になってしまった。

私は、何をする気力も湧いてこない。

着替えて食事をし、トイレに行く以外、うにの隣にいる。日本のニュースを見れば、相変わらずコロナ関連のものばかりだ。

スマホをいじっているうち、ふと、うにの最期の日の姿を写真に撮っておくことを思いついた。でも、写真の中のうには、どれも痩せて小さく、表情もすっかり生気を失っていて、見ていてますます悲しくなった。

その間にも、獣医さんに行く時間はどんどん迫ってくる。本当に今日でよかったんだろうか。もう少しうにといられる時間を延ばせないだろうか。そんなことをちらっと考えたりするが、弱って痛々しいうにの様子を見ると、やっぱりこれ以上苦しい思いをさせたくない、と考え直す。

以前、顔面の癌にかかってしまった猫の飼い主さんのブログを見たことがあった。端正な顔が見る影もなく崩れ、とても痛々しい姿だった。最後はかなり苦しんで亡くなったようだ。もちろん最期まで自然に任せるという選択肢も飼い主にはあるだろう。でも私にはきっと耐えられない、苦しむうにを見たくない。

「うにちゃん、うにちゃん。」

呼びかけても今日のうには反応が薄い。

獣医さんによれば、具合の悪い猫は物陰に隠れてじっと身体を休めるというし、死期が近づいた猫も人目につかない所に行きたがるそうなので、最後に膝に抱き上げたいと思ったがやめておくことにした。

その代わり、いよいようにをキャリーケースに入れる前に、夫に頼んで私と一緒の写真を撮ってもらった。

うには意外にもカメラ目線で、微笑んでいるようにさえ見えた。

一方の私はといえば、作り笑顔がびっくりするほどおばさんっぽく、我ながらしょぼいと思わざるを得なかった。

うには、自分がキャリーケースに入れられるのは、獣医さんに行く時だと知っていたと思う。一応いやがる素振りをみせながらも、それほどの抵抗もなく中に入った。

もう、ここに帰ってくることはないのに…。

たった数か月前には、ずっしりと重たいキャリーケースを抱えて、病院通いをしていたのが思い出される。あの頃はまだ、うにが治ると信じていたから頑張れた。でも、全ては今日で終わる。

今ではすっかり軽くなってしまったうにを連れて、外に出た。

2020年12月4日、金曜日の夕方だった。すでに日も暮れて辺りは暗く、顔に当たる風がとても冷たかった。

 

すっかり小さくなってしまったうに